移民の子どもたちと出会ったニューヨーク生活
私の研究のバックグラウンドは国際政治学です。私の学生時代には国際系学部がまだないころで、法学部の国際関係論のゼミで学びました。
じつは、私は小学校の3年生から約2年間、親の仕事の関係でニューヨークに住み、アメリカの普通の小学校で学び、土曜日に日本語の補習校に通いました。私の住む学区には中南米系移民の多い地域があり、クラスの約3分の1はそうした地域の子どもたちで、その子たちの家に遊びに行くと兄弟5、6人がベッドルーム2つしかない小さな家で暮らしていたりして、自分の環境との差に驚きました。
その時、「いったい、中南米ってどういう国なんだろう。彼らがニューヨークにいる理由は、私の理由とはまったく違っていたのではないか」ということで南の問題を考えることになりました。
以来、移民や国際関係は気になるテーマとしてずっと自分の中にありました。大学受験では、国際関係を学ぶか人権や憲法を学ぶか考えながら、法学部に進みました。しかし、大学3年でゼミを選ぶ段階になって、やっぱり自分は法律よりも国際関係についてもっと知りたいと思ったのですね。運良く、国際関係論の先生で南北問題研究のパイオニアと言われる先生のゼミに入ることができ、以来、国際関係論・開発論をテーマに研究を続けています。
バンコクのスラムでNGOの幼稚園の子どもたちと
高柳ゼミでのグループ発表
国と国との問題を、多様なアクターに注目して読み解く
国際関係論は、主権国家間の関係だけでなく、国際機関やNGOといった多様なアクターが互いにどういう役割を果たし、世界の紛争や開発、人権や環境の問題とどのように関わっているのかを考えます。いわゆる政治学の一分野ですが、SDGsのような国際的な物事はどんなプロセスで決められていくのか、平和構築の対極にある紛争などの根源となる社会・経済問題をどのように解決していくのかといったことを扱う、非常に広く多様な分野に関わる研究分野です。
SDGsのGoal.17「パートナーシップで目標を達成する」は、1から16までのゴールを各セクターがさまざまな役割を担いながら達成していこうというものです。
そのためには途上国に対してODAなどによる援助も必要だし、経済社会の発展には技術移転といった援助も必要です。一方で、途上国の資金調達力や行政能力の問題もあります。国民を登録するしくみも不十分で人口が把握できないような国もありますし、そうした国で政府の役割をどう強めていくのかという問題もあります。
じつは厄介な ”パートナーシップ„ という言葉
ところで、みなさんは「パートナーシップ」という言葉にどんなイメージを持っていますか? 多くの方は、すべての関係者が対等に協力し合うイメージを持つと思います。しかし、じつは「パートナーシップ」という言葉は非常に厄介な言葉で、現実にはそうはいかないケースも多々あるのです。
「国際社会の原則として主権平等」と言いますね。しかし、現実には援助を出す側の発言力がどうしても強くなります。NGOの世界でも、南のNGOは北のNGOの資金に多くを依存していますし、北のODA資金を直接もらっている南のNGOも増えています。ですから、援助する側とされる側の発言権のバランスの問題は常にあるし、それは政府間においても同様なのです。
南の人たちのなかには、パートナーシップは「スモークスクリーン(煙幕)」だ、南北間の力の差を覆い隠す危ない言葉だという人さえいます。私自身、アフリカやアジアのNGOから何度、このことを言われたかしれません。
日本のODA年1兆円は多いのか少ないのか?
近年、欧米のNGOではあえて現場に人の支援は出さず、資金だけを送って現場の運営は現地NGOに任せる組織が増えています。そのかわりに定期的に現場調査を行い活動がうまく回っているか評価するのです。少しでも現場で北の側が強い力を持たないための試行錯誤のひとつです。もちろん、最終的に費用対効果の見合わない現場は切られてしまうのが現実ですが、こうしたことも「開発効果」というテーマで21世紀の初めから議論されてきた問題のひとつです。
援助ということでは、日本は年間約1兆円近いODA援助をしてきましたが、その額は果たして適正なのでしょうか。国内にも貧富の格差や少子高齢化といった問題を抱えているなかで、なぜ多額の海外援助が必要なのかという声も聞かれますが、ほかの先進国と比べてみたらどうなのでしょう。
実際、1990年代の日本はアメリカを抜いて世界最大の援助国でした。しかし、97年から減少に転じ、今やアメリカだけでなくドイツやイギリスに抜かれて日本は4位、フランスが5位です。でも、ドイツの人口は日本の3分の2、イギリスは半分弱、フランスも人口は日本の半分強しかありません。国の規模で比較すると足りない気がしませんか。単に援助の金額だけを見ていると、大事な側面を見落とすことになります。
主要援助国のODA実績の推移(支出総額ベース)
外務省資料より作成 (出典)OECD/DAC
(注1)卒業国向け実績を除く。
(注2)支出総額(グロス)と支出純額(ネット)の関係は次のとおり:支出純額=支出総額-回収額(被援助国から援助供与国への貸付の返済額)
DAC諸国における政府開発援助実績の国民1人当たりの負担額(2014年)
外務省資料より作成 (出典)DAC統計(DAC Statistics on OECD. STAT)
(注1)支出純額ベース(注2)卒業国向け援助を除く(注3)日本以外は暫定値を使用
貧困とパートナーシップ
貧困問題に関して、SDGsでは「極度の貧困を2030年までに終わらせよう」と言っています。貧困とは何なのか。お金や食べものがないことは分かるとして、さらにSDGsに挙がったほかのゴール、すなわち保健・医療サービス、教育、安全な水、清潔なトイレといったものにアクセスできないといったことも、根源をたどると貧困から派生した問題なのです。
ですから、貧困をなくすためには、所得の引き上げや社会保障の整備も必要ですが、先に挙げたさまざまなゴールが達成できれば、貧困も解決できると言えるかもしれません。
また、最近は、自己責任論ということがよく言われます。貧困は当事者の努力不足もあるのではないのかというのですが、本当にそうなのでしょうか。
まず、途上国の場合、その多くに植民地支配という歴史的な問題があります。南の経済が北の経済に支配された時代があった。アフリカの国境線を見ても分かるように、支配者側が人為的に境界をつくり民族の分断統治を行った。それが現在の紛争につながるケースもあり貧困の大きな要因になっています。アフリカの場合は奴隷制度下において、欧米に協力したか否かといった過去の諍いが民族対立以上に根深い問題として続いていたりする場合もあるといわれます。
では、日本国内の貧困問題はどうでしょう。たとえば、日本の学校制度を見ても、近年は塾に行かないと習えないことが増えています。すると、塾に通わせるお金があるか否かで、学びのスタートに格差が生まれます。それが進学や就職にも影響を与え「貧困の世襲」という問題になっているのです。日本も30年くらい前は“一億総中流”といって、貧富の格差も小さく先進国のなかでも家計所得は比較的高かったのですが、今ではすっかり順位を下げてしまいました。
2030年の世界がどうあるべきか、SDGsとあわせて考えてみよう
若いみなさんには、まず21世紀のこれからの世界、自分が30歳になったころの世界はどうあるべきかを考えてもらいたいのです。いろいろなビジョンがあるでしょう。そのビジョンの基礎となる世界を実現するための「人間と地球のためにすべきこと」のリストこそSDGsなのです。
SDGsの目標は非常に大きく、項目も多岐にわたります。その解決のために、国際社会はさまざまなアクターとどう関わっていくのか、国際関係・国際開発の研究を通して導き出すことができるかもしれません。よその国の問題、日本だけの問題だと思っていたものも、じつはその根源は共通であるかもしれません。柔軟で深く広い視野で、日本を世界を見て欲しいと思います。