日本にとって他人事じゃない、ザンビアの貧困
皆さんのまわりに、大学に行きたいけど経済的理由で断念した人や、バイトで学費を稼ぐために部活を辞めた人はいませんか?じつは、貧困という問題は途上国だけでなく日本にいる私たちの問題でもあるのです。
日本では大学進学にかなりの学費が必要です。そして、就学前教育も無償ではなく、それらの多くを各家庭が負担しています。相対的貧困率*でみると、日本の子どもの7人に1人が貧困と言われるなか、親の経済力に頼った教育環境が教育の格差につながっているのです。
私の研究の1つに、途上国の就学前教育があります。どのような子どもたちがどのような質の就学前教育を受けることができているのか、ザンビア共和国の首都ルサカの貧困層の居住地域に注目して調べています。
ザンビアでは、近年、貧困層の間でも教育熱が高まっていますが、公立の幼稚園が不足するなか、低学費の私立幼稚園が急増しています。しかし、これらの幼稚園は衛生状態も悪く、英語の読み書きや計算を機械的に教えるなど、幼児期の教育としての内容に多くの課題を抱えています。しかし、そもそも経済に余裕のない最貧困層はそうした幼児教育さえ受けることができません。
つまり、日本もザンビアも家庭の所得格差が教育格差につながっていて、その問題の根源には公的な教育支出の不足があるのです。
近年、幼児期の質の良い教育や発達刺激がその後の能力や情緒の発達に影響を与え、将来の収入といった個人の生涯にまで影響を与えることが、多くの研究から明らかになってきました。質の良い幼児期教育を受けた人が多い社会は、犯罪率も低いという研究結果も出ています。つまり、質の高い教育への公的な支出は、貧困の連鎖を断ち、その国の社会や経済の発展に寄与する“賢い投資”なのです。
同様に、教育はSDGsの17の目標すべてに関わっています。ゴール4で掲げる“質の高い教育”とは学校で知識を得るだけでなく、社会で起きている問題と問題のつながりや、その背景を考え、批判的に見る力をつけることが求められているのです。そして、世界で起こっている問題を他人事ではなく“自分事”として捉え行動に移す、その力がSDGsを達成に導くのです。
*相対的貧困率=ある国・地域の中で平均的生活基準より著しく低い層・個人の割合。
一方、国・地域の生活基準とは関係なく生活最低限の水準以下の層・個人の割合を「絶対的貧困率」という。
ザンビアの首都ルサカの貧困層の居住地区で運営される
低学費私立幼稚園の様子
ルサカの貧困層の居住地域の低学費私立幼稚園で、
幼児に英語を教える教員
先進国の中でも最低レベルの日本の公財政教育支出の対GDP比(2011年)
(出典)OECD『図表でみる教育』(2014年度版)より文部科学省作成
(注)機関補助とは、教育機関への公財政支出を指す。一方、個人補助とは、奨学金等の家計・学生への公財政支出を指す。
一般OLがザンビアにたどり着くまで
私は、帰国子女でもないし学生時代の留学経験もありません。ただ、国際社会に関心の強い母が、幼いころから外国の絵本やドキュメンタリー映画などを通して人間は多様な存在なのだと教えてくれました。その影響もあり、幼い頃から外国のことに関心を持ち、大学では比較政治学を学びました。当時は日中韓の外交問題もあって東アジア地域の国際関係に興味があったのです。しかし、大学3年生の時にタイに住む叔母を訪ねた際、高級なホテルの立ち並ぶ観光地周辺に多くのストリートチルドレンや物乞いがいることにショックを受け、卒論はタイにおける経済格差をテーマに選びました。
大学卒業後は一般企業に入り、時期が来れば結婚して家庭に入るのかなと漠然と思っていました。ところが、突然の人事異動や社内の権力争いに巻きこまれ、それを契機に「留学して関心のあった国際関係を学ぼう」と一念発起。留学費用を貯めて会社を辞め、イギリスのヨーク大学で、比較政治や国際関係を学びました。留学先では、アジア、アフリカ、ラテンアメリカなどの途上国から来た留学生と仲良くなり、各国が直面する問題について学ぶなかで、途上国の開発問題の解決をライフワークにしたいと強く思い、滞在2年目はロンドン大学で開発学を学びました。
帰国後は、途上国の開発現場を経験したいと、外務省の専門調査員制度を利用してタイの日本大使館勤務に赴任する予定だったのですが、赴任前に担当者から「開発に興味があるならザンビアはどうですか」と勧められました。まだ見ぬアフリカの土地は不安だらけでしたが、母に「そんな経験はなかなかできない。大丈夫よ」と背中を押され、思い切って行くことにしました。
社会の問題を解決する、教育の力
ザンビア共和国はイギリスによる植民地時代を経て1964年に独立したアフリカ南部の国で、ビクトリアの滝やサファリなどの観光資源のほか、近年は銅の輸出でめざましい経済成長を遂げています。しかし、私が赴任した1990年代後半から2000年の前半は、長い経済の低迷から治安が悪化し、国民の15%以上がHIVに感染しているといった状況で、信号で車を停めたら強盗に機関銃で狙われるから、赤信号でも突っ切れと言われたほどでした。
私の仕事はザンビアの政治経済の調査でしたが、教育分野の支援計画の立案や他ドナーとの調整、数百万円単位の小口の支援金「草の根無償資金協力」を現地で草の根レベルで活動する団体に供与する窓口担当として、案件の審査やモニタリングなどもしていました。ちょうど日本も初等・中等教育分野の支援を手探りで始めたころです。そこで、貧困をはじめとするさまざまな問題の解決における教育の重要性に気づき、途上国の教育を支援する「教育開発」の専門家になろうと決めたのです。
3年の任期終了後は、帰国して外務省のJPO(Junior Professional Officer)制度を使ってユニセフ・カンボジア事務所に勤務後、外務省本省で日本の教育分野の国際協力の政策策定などに従事。そして、奨学金を得て再びザンビアへ行き農村部の小学校と地域住民との関係性に関する研究をしました。当時、ザンビアでは国際援助機関の政策の影響を受け、学校運営への保護者や住民の参加が推進されていました。政府もPTAの権限強化や地域住民によるコミュニティ・スクールの運営など、保護者や住民と教師が意見交換できる場を設けて教師の意識向上と農村部のニーズに合った教育を進めようとしていたのです。
課題を抱える住民の声を、研究を通して世界へ届ける
1年ほど滞在して調査をした結果、農村部の実態は政策で期待されたものとはかけ離れていることが分かりました。農村部の住民たちは小学校も出ていない人が多く、意見交換の場をつくっても、実際に話をするのは教師ばかりで、子どもが勉強しないのも学校に来ないのも親の怠慢のせいだと一方的に叱責していました。さらに、住民参加という名の下で、教師やPTAの役員たちが学校の補修や教員給与を補うために親に金銭や労働力を提供させるという一種の“搾取”まで起きていました。初等教育の無償化のための予算が政府から十分に配分されず、学校側も親から徴収するPTA会費に頼らざるを得なかったのです。その結果、会費を払えない最貧層の子どもやエイズ孤児たちは学校に行きづらくなっていました。地元住民が自助努力で作ったコミュニティ・スクールでは、地元の青年たちがボランティア教員として子どもたちを教えていましたが、彼ら自身も貧しいため、農耕期には学校に行けないなど、安定した運営は困難でした。
このとき国際援助機関による支援政策と現場との乖離に、大きなショックを受けました。私もそれまでは、そうした農村の現状を十分理解しないまま、住民参加推進は良いことだと信じていたのです。どんなによい政策でも、住民に経済力、識字能力、交渉能力が備わっていなければ意図せざる結果を生むこともあるのだと痛感しました。同時に、そうした農村部や貧困地域の住民たちの言葉を、研究を通して代弁したいという思いを再認識させられた出来事でした。
高校を中退した地元の青年がボランティア教員を務める
ザンビア農村部のコミュニティ・スクール
ザンビア農村部での調査の様子
情熱と学ぶ気持ちさえあれば、方向転換はいつでもできる
私自身、実務者としてのキャリアが長く、研究の道を歩み始めたのは遅かったため、博士論文のためにザンビア農村部に行ったときは、調査は予定通りに進まず「私は何をやっているのか」と途方に暮れることもありました。しかし、私が聞いた人々の声をきちんと研究成果として届けなければという思いで頑張れたのです。
大人になってからでも学び続ければいつでも方向転換はできるし、その際に過去の自分の経験が活かせることもたくさんあるはずです。だから、情熱をかき立てられるものに出会ったら躊躇せずに突き進んで欲しいと思います。そして、いろいろな出会いを大切にしてください。私も、これまで国内外でたくさんの魅力的な人に出会い、その人たちから多くを学びました。困難に直面しても、それは人生において意味がある試練だとポジティブに考えて諦めないこと。困難も逆手にとって頑張って欲しいと思います。そして、国際協力に関わる主体は国際機関やNGOなどの援助機関だけではなく、私たち自身であり、開発の主役は現地の人々であることを忘れないでください。身近な生活も、じつは途上国や世界の問題と密接につながっているのです。