人間開発とブータンの取り組み
みなさんは、ブータンという国を知っていますか?
私の研究テーマのひとつは、身体的・精神的・社会的に良好で健康な状態、すなわちウェルビーイング(well‐being)を上げて、その状態を維持できる社会環境をつくること。これに近い社会実践をしているのがブータンなのです。
ブータンは国の豊かさを表すために、経済的な豊かさを表すGNP(国民総生産)指標ではなく、国民の幸福度を表すGNH(国民総幸福)指標を使っています。
①暮らし向き ②健康 ③教育 ④コミュニティの活力 ⑤よい政治 ⑥時間の使い方 ⑦文化の保全 ⑧生態系 ⑨心の健康 の9つの観点から、国民の幸福状態を調べて国の豊かさを測る画期的なもの。私もその開発に関わったことから、GNHは私の研究と実践の核になっています。今でもブータンに足を運び、GNH型社会に関する調査や実践を続けています。
人間開発学は、人が自らの意思で持てる力を発揮し、よりよい生き方を選んで実現できることをめざし、そのために必要な社会のあり方、そのような社会実現の方法を研究します。「人間開発」の概念は、マブーブル・ハックとアマルティア・センという2人の経済学者によってなされ、1990年に国連開発計画の『人間開発報告書』が生まれました。
また、哲学者として人間開発に取り組んだマーサ・ヌスバウムは「たとえ個人の能力が磨かれたとしても、それを十分に活かせるかどうかはその人が生きる社会のあり方次第」とも言っています。人が生まれながらに持っている能力を伸ばそうと望んでも、社会のしきたりや慣習などがそれを許さないようであれば望みは叶いません。
人間開発とは、個人の問題を社会のあり方と結びつけ、人間を取り巻く社会の制度やしくみを通して、多様な人々の選択肢のある豊かな生き方の実現を考えるものなのです。
ゼミで鍛えたフィールドワーク
私の国際志向の強さは親の影響だと思います。小さいころから「日本のなかだけで物事を考えるな、世界に出よ」と言われて育ちました。シュバイツアー博士の伝記を読んで、こんな仕事ができればいいなあと思ったり、ベトナム戦争のニュースを見て紛争やそれに巻きこまれる地域にも関心を持ちました。
大学では、社会の基礎を作る経済的なしくみについて勉強していました。当時は政治学科という選択に気づかなかったので、東大で文系なら経済を勉強しようと。さまざまな人を包み込める社会に関心を持って学んでいくうち、東大に低開発経済論の研究室があると知って、その先生のゼミに入りました。
研究室の高橋彰先生は、経済学部の教授だけど理学部地理学科の出身で、地域研究のフィールドワークの達人。測量して作る地図ばかりか、地域社会の様子を俯瞰できる「ソーシャルマッピング」まで手がける型破りな先生でした。一緒にフィリピンの農村を訪ねたり、ゼミでは英語の分厚い本を読まされたりと鍛えられるうち、子どものころから漠然と持っていた関心事が徐々に具体的な形となり、現在の研究へとつながっていったのです。
住民参加で取り組む長久手のまちづくり
私にとって研究とは同時に実践すること。現状に対して代案を提示するだけではなく、行政や住民と協働するアクションリサーチ(実践的研究)という手法です。たとえば、兵庫県の「兵庫のゆたかさ指標」も県と協働して作りました。その考え方のベースにはウェルビーイングとブータンのGNH指標があります。
愛知県長久手市の「ながくて幸せのモノサシづくり」というプロジェクトは、すでに4年目になります。ブータンや兵庫の取り組みは行政や研究者中心の実践ですが、長久手の実践は地域住民が直接関わっているのが特徴です。行政と市民が協働して長久手の現状をさまざまな調査で探り、議論を重ね、“2050年に自分たちが望む長久手の姿”と“それを実現するために活かす独自のモノサシ”をつくりだそうとしています。
こうした取り組みを、私は酒造りの発酵のプロセスにたとえています。社会は酒。酒を発酵させる米麹は行政、企業、NPOなど。そして主原料の米は多種多彩な住民です。私たち研究者は杜氏のように麹をブレンドしたり米をかき混ぜたりして、質の良い状態を生み出しバランスのとれた社会という美酒を造りあげていくのです。
国民一人当たりの実質GDPと生活満足度の推移
(出展)平成20年度『国民生活白書』57ページ
貧困は経済政策だけでは解決できない
貧困問題を解決しようと考えたとき、とりあえず現物支援すれば当面の対処はできるかもしれません。たいがいの風邪は薬を飲めば治りますよね。しかし、それよりも風邪をひかない丈夫な体をつくれないか。私は、時間がかかっても風邪の予防につながる解決策を考えたいですね。
貧困には経済政策や社会政策も有効ですが、それだけでは解決できない問題もあります。そのひとつが、当事者が貧困を問題だと感じていない場合です。アメリカの心理学者の研究によると、開発途上国のスラム住民の幸福度は予想以上に高かった。たとえば1日2食の厳しい生活状況でも、本人は幸せだと言うのです。しかし、幸福だというなら私たちは何もしなくていいものなのか。貧困問題では、当事者自身が貧困な生活状態を問題として認識することが大事で、それを何とかしなくてはという意識につなげることで、初めて持続可能な問題解決に取り組むことができるのです。
また、どんなに素晴らしい政策提言をしても、それが地域住民の生活の営みと連動していなければ効果はあがりません。私自身、国際機関で貧困政策形成に直接関わっていました。その経験から言えるのは、専門家が作る高度な政策は、住民の間に“誰かがやってくれる”という依存心を生んでしまい、地域の力を高め、維持することができないのです。
支援政策が途上国に負の影響を与えることもあります。たとえば、子どもに教育を受けさせるため、子ども1人を学校に通わせると毎月2リットルの食用油を家庭に支給する施策がありました。しかし、1校で受け入れる子どもは同一家族2人までに制限したのです。すると、3番目以降の子を別の学校に転校させて油をもらおうとする。また、地域の食習慣になかった食用油の過剰摂取が家族の健康にも影響を与える。こうした住民行動による弊害は、政策設計の段階ではなかなか見えてきません。
このように、経済的問題だけでなく、教育から食生活まで、さまざまなことが全部つながっているのが貧困問題。その解決には総合的な取り組みが不可欠で、それを地域の力で支えることができる社会環境づくりが必要なのです。
自分と違う人たちの話をたくさん聞こう
世界には自分と違う人がたくさんいるという意識を持つこと、それこそがSDGsの世界を考えることに役立ちます。国際開発や国際協力の分野では、この態度を持ち続けないと研究も仕事もできません。貧困の分野ならなおさらです。
そのためには、ぜひ自分と違う生活をしている人と積極的に話をしてみてください。高校生なら高校生や先生以外の人と話をして、その人の人生観などをたくさん聞くことです。自分と同じ歳のころ、その人は何をしていたか、その人の住む地域の暮らしはどうか。話を聞くなかでピンときたものがあれば、それが自分の関心のある方向を照らし出してくれると思います。
そして、新聞などでいろいろな分野の記事を読み、世界で何が起きているかを常にアップデートすること。どこに問題があり、どこで何が生まれようとしているのか、自分なりに視野を広げていくことが大事です。広い視野を持つことは、深く広く思考するための第一歩。開発学に限らず、広い視野で世界を見ることができる人になって欲しいと思います。